きょうは、父の爆笑エピソードを話します。
数年前、父が他県に行った時の話です。
ここからは、父の立場から語ります。
電車に揺られて数時間。
駅を出たとたん、私は急にトイレに行きたくなった。
目の前に百貨店を見つけ、そこのトイレを目指す。
ところが、あと10分で開店のため、扉の前でしばし待つ。
他県に来たワクワク感と、今か今かと待つ緊張感で
さぞかしソワソワしているように見えたのかはわからないが、
ふと見るとこの寒空の下、背後に一人、また一人と、
お客さんが並び始めたではないか。
何だ?全員トイレか?
すると後ろの方から「何の列ですか?」と声がかかる。
そうか。商品が目当てで並んでいると思われてるのか。
だがお客さんの列が10人近くになった今、
そして何より今しがた、田舎から大都会に出てきたばかりの
輝かしいはずの第一声が「便所に行きたいんです」だなんて
あまりにもかっこ悪すぎはしないか。
相手は大都会の若造だ。負けるものか。
とりあえず、曖昧に笑ってみた。
私の反応はどう思われただろうか・・・
いやもうそんなのいい。トイレトイレ。早く行きたいのトイレ。
寒いんだよ。頼むよ。
そして、長い時間が過ぎ、ついにトイレの‥いや、
百貨店の扉が華々しく開かれた。
やった!!さあ、トイレや!トイレよ!トイレはん・・・
どこだ?!
いつもなら、すぐに店員に聞くのだが、これが困ったことに
「・・いらっしゃいませ・・」
「・・いらっしゃいませ・・」
入口・店頭・通路の端で、きっちり深々と丁寧なお辞儀をする店員達。
近づくころにはもう目が合ってない。
何せ一番乗りの客なのだ。
寒空の下10分も待った、ありがたいお客様なのだ。
とはいえ、そんなにもかしこまられるなんて。
トイレに行きたかっただけなのに。でも、言えない。
自分で言うのも何だが、ひと昔前の私は俳優の丹波哲郎に似ていると
よくもてはやされたものだった。それが今ここで、
輝かしい笑顔を見せ、深々と頭を下げるうら若き娘さん方に
「便所はどこですか」なんて言えるか。
聞くものか。演じるのだ。ここは、そうだ。とにかく颯爽と歩くのだ。
私は花道のようなその通路を歩き続けたのであった・・・。
(おしまい)
頑固な父はそうやって、1F売り場の突き当りまで、
舞台役者のように足早に歩いていったそうだ。
この話を聞いたとき、やはり私は父の面白さにはかなわないと悟った。