母とのお別れ

「来週には退院したい」と

陽気に言っていた母でしたが、

5月14日 16時9分、天国へと旅立ちました。

享年72歳でした。

  

早すぎる母の死に病院側は「なぜ」親族は「まさか」

という反応でしたが、

何と言いますか、一人娘の私には

なんとなく、なんとなく虫の知らせのようなことが度々ありました。

亡くなる3日ほど前、

「数値も良くなったので、来週から病室が変わります」

「いずれは緩和ケア病棟に転院を」

「余命はあと一年からこれくらいで・・・」

病院の先生から、どんな丁寧な説明を受けても、いざ母を目の前にすると

どう見ても、もう時間はそれほど残されていないように私には思えました。

  

当日母のところへいくと、数値が下がり始めており

主治医さんがみえたので

「今晩私、いたほうがいいでしょうか」と尋ねると

「そのほうがいいかもしれませんね」との答え。

急いで身内に連絡しに行きました。

  

こんな状態でも、母は意識がしっかりあるので

母の前で連絡するわけにいかないので

食堂から父に電話をかけました。

 

母のもとへ戻ると、看護師さんがついてくださり、

「大丈夫」という、あたたかいことばのもと

これからお見送りのような空気・・・

えっ?えーっ、もう?

まさか、私一人で看取りを・・するのか・・・

嘘みたいな状況についていけない。

いかん、しっかりしなくてはと思うが頼りない。

  

実に突然、その時は来た。

  

私は母の両手を握りしめ、

「お母さん、ありがとう!!

間もなくぜーーんぶ、楽になるからね!

私らみんなで、頑張るからね!!

私がそっちへ行ったら、迎えにきてよ!!」

とりあえず浮かぶ言葉を、すべて投げかけた。

 

ふと我に返り、「音楽聞かせてあげていいですか」

ザ・キングストーンズの「グッドナイト・ベイビー」を

スマホから流す。

母がいつしか「これが一番好き」と言っていた歌。

それを聞いたのは10年以上前だが、

記憶というものは時に、ここぞというタイミングで蘇る。

  

私は以前「こういうことは元気な時に言っておかないとね。」と前置きして、

「私を産んでくれてありがとう。感謝しています」

と母に伝えていた。

といっても、亡くなる10日ぐらい前だったから、

もう言葉が出なくなっていた母が言いたそうな言葉は、

推測でしか受け取れなかったが。

でももう、それで充分だった。

昔は叩かれたり、喧嘩したり、嫌なこともあったが

この入院で母と向き合っているうちに

いつしか、そんなことはもうどうでもよくなっていたのだ。

 

私たちはがんばった。

歩けなくなれば「車いすに乗れたらどこへも行ける」

起き上がれなくなれば「今動いてないから、筋肉がちょっと弱っているだけ」

声が出なくなっても「今マスクしてるから話すのは無理な段階らしい。外れたら、話せるようになってくるらしいよ」

息がつらくても「ちょっとずつ、体が自然にもとにもどってきてるから、がんばらないで楽にしててね」

もうちょっとの辛抱だからね。

お母さんの生命力は、凄いね。肺炎を治すんだもの。

最悪の状況は、もう超えたから、あとは少しずつ、よくなるだけだからね。

とりあえず、ここだけ乗り切って、もうね、家に帰ろう。

私が絶対にお母さんを家に連れて帰るから。

行きたいところ、考えといてね。

楽しみにしていて・・・

  

未だかつて経験のないような現実が、いくら降りかかろうとも、

明るい明日に向かって精いっぱい、前を向き続けることを

私も母もやめなかった。

いよいよ最後の、ほんとうにこの、5分前までは。

  

キングストーンズの歌が母を優しく包む。

 グッドナイト グッドナイト ベイビー 涙こらえて

 楽しい明日を 夢見てグッドナイト

 ・・・・

「4時9分、死亡が確認されました」

  

母は夢見るように穏やかに眠った。

永遠に。

 

私は主治医さんに感謝の言葉を述べ、あとは看護師さんの言われるがままに動き、

あわただしく通夜、葬儀も終わった。

一通り涙も出尽くしたと思っていたが、疲れなのか

今度は全身の筋肉と関節に激痛が走りはじめ、薬を飲んでいなければ

とてもじゃないが動けない状態が続いている。

父の世話は連絡のみにさせてもらい、子供二人の世話をなんとかやっている。

手に力が入らないので字は書けないが、文字を打つことはかろうじてできる。

ピアノも弾ける。

早く治りたい。元の感覚に戻りたい。

不安な焦りもあるけれど。

  

お母さん、今まで本当に、ありがとう。

 

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